Red Rose
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ジュリアは夢を見ていた。義父ヘンリーと共に、手を繋いで家へ帰る夢を。ヘンリーの手は大きく、しわのある手だった。温かく、ジュリアの小さな手を包むように握ってくれる。ヘンリーが、家が見えてきたと言って、家の方角へもう片方の手を伸ばした。
お前の家だよ、ジュリア。
深みのある声で、ヘンリーは言った。ジュリアは、そんな事は分かっている、と笑顔でヘンリーの手の先を見た。そこにあったのは小さな二階建ての家。
そうではなかった。大きな屋敷。ジュリアは驚いてヘンリーを見た。しかしその時、しっかりとジュリアの手を握っていたのは、ヘンリーではなかった。
ジュリア……。
そう名前を呼ぶ、その人は。
「……ミシェル?」
ジュリアは目を覚ました。自分のベッドだった。疲労を感じるほど泣き叫んだように思う。あれはすべて、夢だったのだろうか。
「目、覚めたかい? ジュリアちゃん」
目覚めたジュリアの枕元にいたのはルイスだった。
「……ルイス? ミシェルはどこ?」
「ミシェルは、寝てるよ。疲れたのさ、君よりぐっすり寝てる。君も、もう一眠りしたら良い」
ルイスは静かにそういうけれど、バタバタと屋敷の中が騒がしい。ジュリアは目を瞑った。しっかり気を落ち着かせれば、今は鮮やかに思い出せる。義父がどうやって死んだのか。すり替わる前の、本当のジュリアの記憶。そして、眠りに着く前の、ミシェルの姿。穏やかに笑ってはいるが、いつもよりずっと青ざめた顔。ジュリアの背筋が凍りついた。
「嘘……。ルイス、ミシェルはどこ? 嘘、寝ているなんて嘘だわ!」
ルイスが止める間もなく、ジュリアはベッドから飛び出した。そしてミシェルの部屋へ駈け込む。
「お嬢様……」
戸口でベティが泣いていた。ハンカチで涙を拭っている。そしてアルスがベッドの脇に立っていた。隣には見たこともない医者がいる。
「駄目だ……。解毒剤が間に合わん。手元にあるものではどうしようもない」
医者が首を振った。ミシェルの脇腹には、暗殺者の投げたナイフが刺さっていた。毒が塗られたナイフを受けながら、ミシェルはジュリアを抱いて走ったのだ。激しい熱にうなされ、ミシェルは死を迎えようとしていた。毒が体を蝕んでいく。
「……ミシェル……?」
額に汗を浮かべ、苦しむミシェルの姿に、ジュリアは愕然となった。
「ミシェル! 嘘でしょう。何かの間違いよ! ミシェル!」
ジュリアはベッドに駆け寄り、ミシェルの体をゆすった。
「お嬢様!」
「ジュリアちゃん!」
アルスと、駆け寄ったルイスがジュリアをミシェルから引き離す。
「嘘! ミシェルの嘘吐き! 夢なんかじゃなかったわ! ミシェル! 元通りになんてならない! パパは殺されたのよ! 貴方も! …………貴方も死んじゃうの?」
ベティが部屋を飛び出して行って泣き崩れた。医者はジュリアから目を反らした。
「嫌よ! ミシェル! 死なないで! 死んじゃ嫌! ずっと、ずっと私の家族でいてよ!」
ジュリアは二人の男を振り払ってミシェルを抱きしめた。ルイスもアルスも、もうミシェルからジュリアを引き離そうとはしなかった。泣き崩れ、もはやジュリアは声を上げることすらできなかった。
私はまた家族を失うの?
それまで押し黙って状況を見ていたカルロスが、一つの小瓶を取りだした。そしてジュリアの背に、そっと大きく無骨な手をのせる。
「解毒剤だ、お嬢ちゃん。早く、飲ませてやりな」
薔薇姫本人がそう言ったわけではない。しかしカルロスには分かっていた。
「本当に? これを飲ませれば、ミシェルは助かるの?」
ジュリアは小さな手でそれを受け取った。
「あぁ……女神様からの贈り物だ。嬢ちゃんの泣く姿は見たくないってよ」
ジュリアは小瓶の栓を抜き取ると、ミシェルの口元に寄せて中にある液体を飲ませようとした。しかし、高熱に喘ぐミシェルはそれを飲まず、吐き戻してしまった。
もう……一人になるのは嫌よ。
ミシェル……絶対に死なせたりしないから……。
あの悪夢の夜から五日後、ミシェルは自室のベッドで目が覚めた。ミシェル自身には、どれくらいの間眠っていたのか見当もつかなかった。それ以前に、本当にここが自分の部屋なのか、疑わしく思った。脇腹が激しく痛む。あの夜に刺されたところだ。脇腹を庇いながら体を起こすと、ベッドの端に顔を伏せて寝ている少女を見つけた。
……ジュリア……。
外は日が昇ったばかりだった。夢でも、死後の世界でもない。
私は…………生きて?
そっと確認するように、ミシェルはジュリアの髪に触れた。あの夜、馬車の中で触れた、柔らかな感触そのものだった。
あぁ、私は生きているのだ。
ジュリアを守ると誓った。その癖に、ああして暗殺者の手に落ちた自分を、情けなく思った。しかし、あの死に落ちて行く感覚。二度目のそれを、本当のものにしてもいいかと、甘い思いにとらわれたのも確かだ。
ぴくりと、ジュリアの体が動いた。ゆっくりと面をあげる。疲れの見える眼差しが、不謹慎にもとても美しく見えた。
「…………ミ……シェル……」
ミシェルが微笑むと、ジュリアの瞳が潤み、みるみるうちに涙が頬を伝った。
「ミシェル!」
ジュリアの腕が、ミシェルの背に回った。ベッドの上に身を乗り出して、ジュリアはミシェルに抱きつき、ミシェルはそんな彼女の体を優しく抱きとめた。
「ミシェルの馬鹿! 嘘吐き! 悪魔! 意地悪な女たらし! 大嫌いよ!」
ジュリアはミシェルの背を拳で殴りながら悪態をついた。ミシェルはただじっとそれに耐えていた。いや、嬉しかったのだ。生きている、と思った。やがてジュリアの拳が弱くなり、はたりとやんだ。
「貴方には私を引き取った責任があるのよ。途中で放り出して死んじゃうなんて、絶対許さないから。貴方は……たった一人の、私の家族なんですからね!」
ジュリアの言葉に、ミシェルは驚いた。
「ジュリア……」
「一人になるのは嫌よ。貴方が倒れて、初めて気付いたの……大好き。パパの側で泣いていた私の手を取ってくれた時から、ずっと貴方が好きだったわ。素直になれなくて……だって一目惚れってなんだか認めるのが悔しいんだもの」
そう言って笑った彼女はとても綺麗で――。
……そういう問題か?
ミシェルは百八十度反転した女の気持ちについていけず、思わずジュリアの体を引き離した。当のジュリアは何故引き離されたのかわからずきょとんとしている。こういう時、男は感極まってもっと強く抱きしめてくれるべきではないだろうか。
「家族に一目惚れなんて言葉、使わないだろう、ジュリア」
「あら、使うわよ。夫婦だって家族だわ」
その時のミシェルの顔。呆気にとられた彼の顔を、一生忘れないでおこうとジュリアは思った。
「たっ……確かに使うが、しかしな……」
「私、貴方が寝込んでいる間、一時も眠らないで看病したの。その間ずっと考えてたわ。貴方が私の何なのか。パパはもう死ぬまでヘンリー・スタンスだけよ。兄にしては私と貴方、歳が離れすぎているし、弟は問題外でしょ? でも、夫なら良いんじゃないかって。ずっと一緒にいられるし、十四なんて歳の差、珍しいものじゃないもの」
「ジュリア、結婚相手はもっと慎重に決めるものだ。今まで外に出さないで人に会わせなかったのは私の責任だ。これから友達も作れるように外へ連れて行くから、私のような年寄りは止めるんだ」
「まだ年寄りじゃないでしょ。それに頭が良くて、お金もあって、優しい男に嫁ぐのに文句があるっていうの?」
「ジュリア、その条件なら私じゃなくても良いだろう」
「駄目よ、もう一つあるの。私ファーストキスを大切にしてきたわ。結婚する人のためによ。でも貴方に薬を飲ませるのに、大切なファーストキスを貴方にあげちゃったの。だから、貴方にもらってもらわないと私、困るの」
ミシェルが思わず唇に触れたのを見ると、ジュリアは勝ち誇ったように笑ってベッドから降りた。
「私、絶対良い女になるわ。後悔させたりしないから、浮気しないでよ」
ミシェルはもはや言葉もなかった。
「ルイス達を呼んでくるわ。皆心配しているから」
目覚めた途端のジュリアとの強烈な会話で、ミシェルは一気に疲弊した。他の男と知り合えば考えも変わるだろうと思い、今まで外に出さなかったことを激しく後悔した。
だが……暗殺者達はまだ生きている。
ミシェルはジュリアを連れて逃げることで精一杯だった。脇腹を刺され、それに毒が塗られているのも感じながら、彼はそれでも走った。ルイスとカルロス将軍が来て、暗殺者達は引いた。だがまたジュリアを狙ってくるだろう。ジュリアはヘンリーが殺されていたことも思い出した。暗殺者達は――その依頼者も――二度目の失敗を許しはしないだろう。
「起きたか、幸せ者」
部屋に入ってきたのはルイスだった。つかつかとベッドに歩み寄り、ドカッと椅子に座る。
「五日もジュリアちゃんに看病してもらいやがって、うらやましい奴だぜ」
「……心配をかけたな」
「あぁ、心配したさ。それ以上に悔しいよ、俺は」
怒りの色をあらわにして、ルイスはミシェルの胸倉を掴んだ。
「何でかは分かってるだろ。一言も漏らさなかったお前の卑怯さにさ。巻き込みたくなかったなんて言わせないぞ」
「……お前は卑怯者に向いていないから。それが答えだ、ルイス」
目が合うと同時に、二人は噴出した。声を上げて笑うと、脇腹が痛む。それでもミシェルは笑った。生きていることが、こんなに良いことだとは思わなかった。少なくとも母が死んだ時には、自分も死ねば良かったと思ったはずなのに。
「そう言えば、解毒剤は医者が?」
「いや、医者は持っていなかった」
「では誰が?」
「聞いて驚くなよ。カルロス将軍だ」
「カルロス将軍……」
倒れた時、薄れていく意識の中で、短剣に塗られた毒の種類もわかっていた。そしてその解毒剤が非常に手に入りにくいものであることも。薬師であるミシェルのところにも置いていないものを、カスロス将軍が何故持っていたのだろう。上手く、この時に。
「将軍は王宮へ行ってるけど、手紙を預かってるぜ。ほら」
ルイスに渡された手紙を、ミシェルはすぐに開いた。目に飛び込んできたのは美しい、流れるような文字。薬の依頼の時と同じ、薔薇姫の筆跡だった。カルロス宛のその手紙は次のような内容だった。
カルロス様
ヘンリー・スタンス氏の養女ジュリア様を狙う暗殺団六名の暗殺を無事終了したことをお伝えします。
独自の調査により、ヘンリー氏暗殺の背後にはムアストレイ王国医学院博士の不正があった事が判明しております。博士がヘンリー氏に不正を知られたと勘違いをし、暗殺団に氏の暗殺を依頼。しかし氏に養女がいたことを知ったのが氏を暗殺した後であり、暗殺団はジュリア様を探していたようです。一度城へ、ヘンリー氏の教え子を名乗る者ダニエル=ファストが参りましたが、暗殺団全員の顔を調べたところ、それらしき人物を発見いたしました。
なお、医学博士の所には私から文書を送り付けましたので、今後この件に関して新たに暗殺者が派遣されることはないものと思います。不明な点がございましたらご連絡を。陛下へのご報告を宜しくお願いいたします。
R・R
ミシェルは手を振るわせながら二枚目を捲った。そこにはカルロスの字でミシェル宛の手紙が書かれていた。
ミシェルへ
前の文書を読んで分かったであろうが、薔薇姫の手によりジュリア嬢を狙っていた暗殺団は暗殺された。
ヘンリー氏の死の真相についても書かれていた通りだ。
薔薇姫が動かれた経緯については、お主自身が薔薇姫にお会いし、確認することを勧める。またこれを読めば分かることであろうが、お主に飲ませた解毒剤は薔薇姫が某に託されたものである。
本来一般人であるお主に薔薇姫の住まいを教えてはならんのだが、特別に教える。姫の正体も住まいも、誰にも口外してはならん。ジュリア嬢を連れて、体調が良くなったら出向くと良いだろう。
無理はせぬように。
カルロス
手を引くと言いながらも、彼女は仕事をこなしたのだ。ミシェルは彼女に感謝していた。自分で引いてくれと言ったのに勝手なことだけれど、正直ミシェルは彼女が暗殺団を殺してくれて涙ぐむほど安心した。もうジュリアを狙う者はいない。これからは本当に、何の心配もなしに、平穏無事に生きていけるのだ。ジュリアだけでなく彼自身も。ただ、何故彼女が手を貸してくれたのか、彼には分からなかった。将軍の手紙に書かれている場所へ行って、彼女に会うべきだと思った。まず一番に、礼を言いたかった。
「何だって? 将軍」
「……傷が治ったら、旅行でもしろ、と。ジュリアを連れて」
「お、良いな、それ。俺も一緒に行くかな」
「仕事でもないのに、将軍がそうやすやすと城を離れられるわけないだろう」
「ちぇっ。将軍って不自由だよな」
その拗ねたような言い方がおかしくて、再び二人で笑い合った。
Flower Top / 後編